11時20分に成田に着く。早く着きすぎた。13時にチェックイン。UAは全席禁煙だそうで安心。昼食にざるうどん&すきやき丼のセットを食う。特に免税品を買うわけでもなく、待合室でぼ〜っとしてから乗機。「歩き方」を読んでチップの出し方について復習する。
昼食はチャイナタウンの渡里さんおすすめの店でワンタンを食す。うまい。むむむ、この「三和」っていう店、なんだか前に見たことがあるような……。テレビかなあ。店のおばちゃんと写真を撮ってもらった。後で送ってねと言ってアドレスを渡されるが、おばちゃん目をつぶっちゃってて不覚の顔。
食事の後、渡里さんのお目あてのワインをさがして近くのワイン屋を2軒回った。が、件のワインは売切だったらしい。夏のサンフランシスコは寒いので有名らしく、確かに日陰に入るとちょっと肌寒い感じがするくらいだ。サンフランシスコは坂が多いため、歩くと距離の割には大変。気温が低いのはかえって助かったのかも。
内容はStonehenge Consulting Services(Randal、Tomの会社)の教科書にそっている。主なトピックは以下のとおり。
午後になると強烈な眠気が襲ってきた。まだ時差ぼけが残っているのか。確かに日本時間にすると、夜通し起きていて朝ついに眠くなるという頃合いだ。それとも、単に昼食のサンドイッチが多すぎてお腹いっぱいで眠いだけなのか。コーヒーをがぶ飲みしても役に立たなかった。BoFが始まった。まず、全員を地域ごとにソートしようということで、各自電話の市外局番をシールに書いて胸に貼った。が、実は市外局番が近いからと言って地理的に近いってこともないので、来年は郵便番号を使おうってことになった。番号の一番大きなダラスの人と、一番小さなロンドンの人(国番号「+44」は2桁しかないから)があたりで、オライリーの本をどれか一冊もらえるクーポン券(手書きだけど)をもらっていた。
Perl Mongersって何かという話と、地域のPerl Mongersを作るにはという話があったが、ここではPerl Mongersの話を紹介しておこう。Perl Mongersの名前の由来についてはNew York Perl Mongersを参照するとよい。Perlモジュールのサフィックス「.pm」になるように決めたのだそうだ。地域ごとにPerlユーザーグループを作って発表会をしたり、のみ食いしたりということをするときに、非営利組織としての体裁がほしいことがある。ドメインを取ったり、オライリーと交渉してPerlとラクダの絵を使っていいと言ってもらうとか、会員に本の割引を提供してもらうとか。そういう、事務的なことをユーザーグループを作るたびにやるのはムダなので、Perl Mongersでまとめてやろうという話だそうだ。その運営費として今はTシャツの売上などをあてているが、スポンサーもさがしている。
続いてLarry Wallのオニオンスピーチ。Larryが現れると場内は割れんばかりの拍手。話の内容のうち、理解できた部分だけをかいつまんで説明してみよう。普通、複雑さは敵だと思われているが、世の中は複雑なのであって、ツールや言語をシンプルにしすぎるとかえってプログラマーの仕事が増えてしまう。Larryは今PerlをXMLとUnicodeに対応させる仕事をしている。中国語やいろんなシンボルの文字を表示していろんな話をした。最後にPerlが広く使われるようになった様を輪切りのたまねぎに例え、重心は中央にあるが質量のほとんどは外側にある、次に広がっていくのは最外周だ、外周が大切であるというようなことを言った。こう書いてみると、Larryの話の面白さが十分伝わらなくて申し訳ないが、とてもいい話だった。
会場から、こんなにPerlとActiveStateが成功するとMicrosoftがstampedeしたりtake overしたりするんじゃないかと心配する質問も出たりしていた。フリーソフトをstampedeできないとか、MicrosoftにとってもPerlをそのままにしておく方がUNIX→NTの乗り換えがしやすくなるなどでメリットがあるはずだなどの答が返って来た。
マルチバイト文字列の発表者は「日本語情報処理」の著者Ken Lunde。Adobe勤務なのですぐ近くだそうだ。コード変換と正規表現、ユニコードになると助かるという話。
ネットスケープは5.0のソースを公開し、今やmozilla.orgは成長し続けている。公開すべきソースを5.0のものにするか4.0にするかの判断は難しかった。結局、存在するものをopenにするより、openから開始するのが楽だ、ということで5.0が公開された。オラクルやInfomix、Corel(WordPerfectのベンター)も、Linux版の製品を出しはじめた。今やオープンソースはphilosophy(哲学)の問題で使われるのではなく、businessの理由で主流になってきている。
会場からの質問で面白かったのは、「会社にオープンソース製品を使わせたいが、評価だけでもさせるために、上司を説得するためのドキュメントのテンプレートはないか」というものだった。残念ながらそういうものはないらしい。しかし、会社を「オープンソース製品がいい」と思うように教育することはこれから確実に必要になってくるとのことだ。
XMLのデザインゴールのひとつに、ISOのSQLやSGMLの反省があった。それらはオプションが多すぎて、製品によってサポートされたりされなかったりがまちまちだった。XMLはオプションがまったくなく、すべての機能は必ず実装されなければ「XML処理系」の名をうたうことはできない。この結果、XMLプロセッサは自動的に国際化されることになる。UnicodeはXMLに要求されているからである。XML処理系を作るときは、パーサーを書かないことが重要だ。すでにC、Java版のライブラリーがリリースされており、Perl版のXML::Parserも開発中だ。
他に面白かった話は、Timが最近Linux Boxをセットアップしたときの話だった。XF86Config、lilo.conf、smb.conf、inetd.confなど、様々な設定ファイルはすべてテキストファイルだが、全部書式が違う。fvwm2rc95に至っては、同じファイルの中でさえ行継続の書き方が違ったりしている。新しいsyntaxを作ったり、そのパーサーを作ったり、人の作ったsyntaxを勉強したりは全部無駄、これからはXMLにしましょうというわけだ。この他PerlによるXMLサポート、DOM(Document Object Model)の話があり、「Stop Proprietary Binary Format!!」で話がしめくくられた。
サンノゼに来るときは101を下ってきたのだが、帰りはゴールデンゲートブリッジを通りたかっので、わざと遠回りすることにした。880を北へ向かい、リッチモンドからラークスプールへ出て、GGBを渡ってサンフランシスコに入ろうというわけだ。880はフレモントのあたりがかなり混んでいたが、その後は流れだした。しかし、5時ごろ、ベイブリッジをパスしようとしたところ道を間違えてしまい、そのままサンフランシスコに入ってしまった。仕方がないので市内を通過してゴールデンゲートブリッジを渡り、そのままUターンして帰ってきた。結局宿に着いたのは6時ごろ。
1993年に初めてバトルテックを遊んだころは、まだインターネットなんて言葉も誰でもが知っているものではなく、ロボットに乗って対人対戦するゲームは他になかった。他のゲームと違って、ミッションブリーフィングとレビューという形式が、自然とコミュニティーを形成し、チームができ、本名も職業もわからんが性格と特質は知ってるとかいうヘンな人間関係に発展した。世界大会、と言っても日米戦が行われて、代表選手でもないのにアメリカまで出かけて行って、つたない英語で外国選手と即席チームを組んだりした。このころ(1995年ごろ)が多分VirtualWorldのピークで、その後はMech Warrior2などのPCによるネットゲームに押されて下火になっていく。
1995年にリリースされたTeslaと呼ばれる新型は、SIGGRAPHでGallaryを取りはしたものの、新しい店を開くときにコクピット型のきょう体や、サイトの内装に金がかかりすぎて、資金を回収しきれないものになってしまった。今から考えると、3dfxなどの安価な3Dグラフィックが出現する直前だったから、間が悪かったのかもしれない。
今でもアメリカ各地ではちゃんと営業しているサイトもあるから、ノウハウのあるところでは金がもうかっているのだろう。1997年に新しいフランチャイズ方式になってからまだ2年経っていない(この種のライセンスはたいがい2年契約だそうだ)から、来年になっていくつの店がつぶれるかを見るまではあまり楽観的なことは言えないが。
就職してからのこの5年間、自分で金を稼ぐようになって、仕事はまだ特別忙しくもなく、徹夜などの無理が効く若さがあった時期にこういう遊びにハマれたのは、運が良かったと思う。他のパイロット達にもそういう年代が一番多い。この新しいタイプの交友関係で出会って数組が結婚し、彼らの子供ももうすぐ3人目が生まれる(うちの拓ちゃんは2人目)。
しめて、85USドルくらい。向うでは残念ながらクレジットカードにチャージすることができないので、なんとかして米ドルを送る必要がある。「海外送金FAQ」というページを見つけたので大いに参考にした。結局、100ドル分のT/Cにカウンターサインし、航空便の書留で送った。
朝11時半に起きて部屋を見渡す。どこから手をつけていいのか途方にくれる。とりあえず、本棚(4本のうち最後の1本が買ってから8か月以上放置されている)を組み立てることにした。
本棚が無事組み上がり、部屋にある大量の本をどんどんぶち込めるようになると、だんだんなんとかなる気がしてきた。うちは6畳の部屋と4畳半の部屋をつなげてあるのだが、まず6畳の方をなんとかすることにした。物をどんどん4畳半の方へ運び込み、ようやく掃除機がかけられた。
今度は逆に、4畳半のモノたちをキレイになった6畳へ運ぶ。なんとか掃除機がかけられて、4畳半はキレイになったものの、もう一方の部屋はなかなかカオスな状態。そうじ前のレイアウトに戻すか、別のレイアウトに変えるか、たっぷり15分は悩んだ後、結局好案ないままに元に戻す。
細部はキレイになったのだが、全体の印象は変わらずじまいのおそうじであった。おそうじ終了が9時すぎ。マーちゃんの散歩に行っておふろに入り、みんなが帰ってくるまでアストロノーカで遊ぶ。台所も大変な状況だが、ちょっと手を出す気力がなかった。
ちなみに途中で食事に出かけて、本屋で約1時間立ち読みしてしまったことは内緒(笑)。
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